パートナー代表の高橋俊哉です。今日のお題はまたまた、一筋縄ではいかない、大きなテーマですね。幸せってなんだっけ?なんだっけ?とさんまさんがCMで唄っていました。(ちょっと古いかな?)幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね、ってこれはチータこと水前寺清子さんですね。(更に古いね!) “幸せ”、“幸福”については、洋の東西を問わず、古くから現在に至るまで、人類、いや生きとし生けるもの、全ての生命に関わる根源的な問いとなっています。哲学、文学、心理学、音楽、宗教、政治などなどあらゆる分野で、「幸せになるためにはどうしたら良いか?」ということについてひたすら、考え、研究し、訴え、沈潜し、祈り、政策実行し、追い求めてきた、いや追い求めているものでしょう。お馴染みの詩を記してみます。「山の彼方の空遠く 幸い住むと人のいう。ああ、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみかえりきぬ。山のあなたになお遠く幸い住むとひとの言う」 (カール・ブッセ作 上田 敏訳)幸せは山の向こうに住んでいると聞き、人と連れ立って行ってみたが見つからなくて、涙を流しながら帰ってきた。幸せは更に遠い彼方に住んでいると聞いた。というような拙訳をするまでもない、分かりやすく、有名な詩ですね。遠い遠いところに幸せはあって、人はなんとか手に入れたくて、追い求める、しかし、けっしてそこに到達することなないのでしょう。では、幸せってどうすれば手に入るのか?よくある問いは、金なのか、地位・名誉なのか、自由になる異性(毎度ながら同性も含む、ですね。)なのか、というとそうではないだろう、なぜならそれらは手に入れたとしても、もっと、もっととなっていき、きりがない。なので山のあなた、ではありませんが永遠に、幸せには手が届かないのだ、となります。冒頭に書いた、さんまさんが名付けたお嬢さんの名前、IMALUさん、いまるさん。さんまさんの座右の銘『生きてるだけで丸儲け』から名付けたという風に聞いていましたが、大竹しのぶさんは『今を生きる』から名付けたとおっしゃっているようです。生きているだけ、存在しているだけで幸せなんだというのは、仏教の教えにも通じていますね。幸せを探して右往左往する必要は全くなくて、今現在が既に幸せなんだ、というわけです。逆に誰にでも訪れる出来事は、不幸でもなんでもないと、宗教人類学者植島啓司さんもその著書で書かれています。そうなると気の持ちようということになりますね。生きていくことは、嫌な事や、困難や、辛いことや、思うようにいかないことなどの連続ですね。作家の山本周五郎は、生きていくことは、だれにとっても辛いことなのだ、苦労するようにできているのだと書いています。それでも生きていくのですね。精一杯、自分の想いを込めて、動いて、動いていくと壁があるが、それもなんとか乗り越えて先に進んでいく。すると、またまた壁が待っている。そんなことを繰返して、逃げずに、滑った転んだしながらも更に進んでいくと、時に嬉しいことや、良いことや、快哉を叫ぶ瞬間などもやってくるものです。しぶとく、しぶとく、自分を信じて進んでいくこと、それしかないのです。

 

そうすると、日常のちょっとした些細な事の中に幸せが宿っていること気づきます。朝飯前に、丁寧にいれたお茶を、ゆっくりと喫したりすることが、とても安らぐ、ほっとする貴重な時間なのです。

その時、心許せるパートナーが一緒にいてくれたら素敵だな、と思いませんか。