パートナー代表の髙橋俊哉です。9月も半ばを過ぎ、大分秋めいてきています。昨年はまだまだ暑いなあという感じでしたが、今年は気温も下がってきていて、雨も多く湿度が高めの昨今ですね。頭痛や膝腰の痛み、古傷の疼きなどを訴える会員さんもおられます。季節の変わり目、皆さまもお気をつけてお過ごしください。
「衆生本来仏なり」という言葉をご存じでしょうか。仏教に関心のある方なら、一度は耳にされたことがあるかもしれません。独特の禅画でも知られる臨済宗中興の祖、白隠禅師の座禅和讃に出てくる言葉です。もともとは大乗仏教の『涅槃経』に説かれる「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉がよく知られています。文字どおりに読めば、「すべての人、生きとし生けるものには仏性がある」という意味です。ところで、この「仏性」とは一体何なのでしょう。ここが、なかなか奥深いところです。
仏教の宗派や研究者によっても、その捉え方にはさまざまな違いがあります。「誰もが仏になる可能性を持っている」という意味で考えることもできますし、「私たちの本来のあり方の中に、迷いを超えていく可能性がある」という意味で捉えることもできます。また、仏性を何か人間の心の中に固定された「小さな仏」が入っているように考えてしまうと、仏教の「無我」や「空」の考え方とは少し違ってきます。ですから、「仏性とはこれです」と一言で決めてしまうこと自体が、もしかすると仏性という言葉の面白さを狭めてしまうのかもしれません。
そんなことを考えていたとき、以前読んだ植島啓司さんの「心コレクション」で紹介されていた、仏性についての見方がとても印象に残りました。私の理解では、植島さんは「人間の心の中には、どうしても説明しきれない、訳の分からないものがある。そこに仏を見る」というような方向から、人間という存在を眺めておられるのです。本の中では『人間というのはめちゃくちゃな存在である。』と記されています。これは仏教の教義をそのまま説明するというより、植島さん独自の人間観(植島さんは、宗教人類学者であり、賭けや偶然についても独自の考察をされています。)あるいは人類学的な感覚から仏性を捉え直したものだと思います。しかし、私はこの見方がとても面白いと思いました。
なぜなら、私たちは普段、人間を「分かったつもり」になりすぎているからです。「この人はこういう人」「あの人はこういう性格」「この人は信用できる」「この人とは合わない」。仕事でも、家庭でも、そして婚活でも、私たちは相手を短い言葉で分類しようとします。それは生活する上ではある程度必要なことなのかもしれません。しかし、本当に人間は、そんなに簡単に説明できる存在なのでしょうか。
たとえば、普段は無口で大人しい方が、親しい人の前では驚くほどよく話し、ユーモアたっぷりだったりします。反対に、いつも明るく人付き合いが上手に見える方が、実は一人になると深い寂しさを抱えていたりする。強そうに見える人が、ほんの一言に傷ついていたり、頼りなさそうに見える人が、いざというときには誰よりも人を支えていたりする。若いころには考えられなかったことを、年齢を重ねてから始める人もいます。長い結婚生活の中で、初めて配偶者の優しさに気づく人もいます。
「人間って、分からないなあ」そう思うことがあります。
しかし、私は最近、この「分からない」ということは、決して悪いことではないのではないかと思うようになりました。むしろ、人間の面白さはそこにあるのではないでしょうか。
もし人間が最初から最後まで完全に予測できる存在だったら、人生はずいぶん退屈なものになるでしょう。「この人はこういう人だから、10年後も20年後も必ずこうだ」とすべて分かってしまったら、出会いにも、結婚にも、人生にも、驚きはありません。
ところが、実際の人間はそうではありません。
昨日まで落ち込んでいた人が、ある言葉をきっかけに元気になることがあります。何年も動かなかった人が、ある出会いによって人生を変えることがあります。「もう自分には無理だ」と思っていた人が、思いがけないところから新しい一歩を踏み出すことがあります。
これを仏教的に「仏性」と呼ぶのか、心理学的に「可能性」と呼ぶのか、あるいは無意識と呼ぶのか。それぞれの分野で言葉は違います。しかし、少なくとも私たちの中には、「今の自分だけでは説明できない何か」がある。そのことは、日々人と接していると感じることがあります。
私自身、結婚相談所で長く人様のご縁に関わってきました。婚活では、どうしても条件が先に出てきます。年齢、仕事、年収、住んでいる場所、学歴、趣味、家族構成、結婚歴……。もちろん、結婚という人生の大きな選択ですから、条件を確認することは大切です。しかし、条件を確認することと、その人自身を分かったこととは別の話です。
プロフィールを読んで、「この人は自分とは合わない」と思っていたのに、実際に会ってみると話が弾んだ。写真ではあまり印象に残らなかった方が、会ってみるととても誠実で温かい人だった。逆に、条件も写真も申し分ないのに、なぜか会話が続かなかった。婚活では、こうしたことが珍しくありません。
だから私は、「プロフィールはその人の全部ではありません」と申し上げたいのです。
プロフィールに書かれているのは、その人の一部分です。もちろん嘘を書いてはいけませんし、必要な情報は正確に伝えなければなりません。でも、人間は履歴書でも、プロフィールカードでも、SNSの写真でもありません。
そこには、その人がこれまで生きてきた時間があります。うれしかったこと、悲しかったこと、失敗したこと、誰かに助けてもらったこと、誰かを傷つけてしまったこと。言葉にできなかった思いもあります。そして、これから誰かと出会うことによって、まだ本人さえ知らない自分が現れてくるかもしれません。
「この人はこういう人」と決めつけるのが早すぎるのは、相手に対してだけではありません。自分自身に対しても同じです。
「私はもうこの年齢だから」
「離婚したから」
「これまで結婚できなかったから」
「自分には魅力がないから」
「こんな自分を好きになってくれる人はいない」
こうして自分自身にレッテルを貼ってしまうと、それこそ自分の中にある「まだ分からない可能性」を、自分で閉じてしまうことになります。
「衆生本来仏なり」という言葉を、私はそんなふうにも受け取ってみたいと思います。
「あなたは今のあなたですべてではありません」
人間には、自分でもまだ分かっていないところがある。相手にも、自分にも、まだ見えていないものがある。その「分からなさ」を、少しだけ大切にしてみる。
これは、婚活に限らず、夫婦関係にも、親子関係にも、仕事にも言えることではないでしょうか。
長年一緒に暮らしている夫婦でさえ、「この人のことは全部分かっている」と思った瞬間から、相手が見えなくなることがあります。人は日々変わっています。昨日と今日では、同じ人でも少し違います。年齢を重ねればなおさらです。
だからこそ、「この人はこういう人」と決めるのではなく、「この人には、まだ私の知らないところがある」と思ってみる。
そうすると、相手を見る目が少し変わります。
これは何も、相手の悪いところまで無理に善意に解釈しなさい、という話ではありません。暴力や裏切りなど、我慢してはいけないこともあります。相手のすべてを美化する必要もありません。
ただ、一つの失敗や一つの欠点だけで、その人の全体を決めつけないことです。
人間は不思議な存在です。
善いことをしたかと思えば、次の日には自分勝手なことをする。誰かに優しくしたかと思えば、別の誰かを傷つけてしまう。自分でも「なぜあんなことを言ってしまったのだろう」と後悔することがあります。
だから、「人間とはこういうものだ」と完全に説明することは難しい。
そして、もしかすると、そこに人間の面白さがあります。
以前、このブログでも唯識や荘子、空海などについて書いてきました。唯識では、私たちが見ている世界が、そのまま客観的な世界ではなく、自分の心の働きによって作られていることを考えます。荘子の「胡蝶の夢」には、私たちが当たり前だと思っている境界が揺らぐ面白さがあります。空海の教えには、この身、この世界の中で仏への道を開いていくという大きな発想があります。
「衆生本来仏なり」という言葉も、そんな流れの中で眺めてみると、とても興味深い言葉に思えてきます。
人間には、まだ自分にも分からない何かがある。
相手にも、まだ自分には分からない何かがある。
だから、人との出会いは面白い。
婚活という仕事をしていると、つい「成婚」という結果に目が向きます。もちろん、結婚相談所ですから、会員様のご縁が実を結ぶことは大きな喜びです。しかし、本当の意味での婚活は、単に「条件の合う人を探すこと」だけではないのかもしれません。
「私はどんな人と一緒にいると、自分らしくいられるのだろう」
「私は相手に何を求めているのだろう」
「私は相手に何を与えられるのだろう」
そして、「この人には、私のまだ知らないどんなところがあるのだろう」。
そんな問いを持って人と会ってみる。
そうすると、婚活は少し違ったものになるかもしれません。
「この人は条件が合わないから終わり」ではなく、「一度会ってみよう」。
「写真の印象が違うからやめよう」ではなく、「実際に話したらどうだろう」。
「自分はもう遅い」と決めるのではなく、「これから何が起こるかは、まだ分からない」。
人生を途中で決めてしまわない。
私は、これもまた大切なことだと思っています。
人は、何歳になっても完全には分かりません。自分自身でさえ分からないのですから、他人が分からないのは当たり前です。
だからこそ、少し余白を残しておく。
「この人はこういう人」と決める前に、「もしかしたら、まだ私の知らない一面があるかもしれない」と思ってみる。
「私はこういう人間だから」と諦める前に、「まだ知らない自分がいるかもしれない」と考えてみる。
その余白の中に、出会いが生まれることがあります。
そして、私は植島啓司さんの「人間の中にある、訳の分からないもの」という見方を思い出します。
仏性とは何か。
本当にそれを一言で説明できるのか。
私には分かりません。
しかし、「分からないから面白い」ということは、少し分かるような気がします。
人間は、分からない。
人生も、分からない。
だから、面白い。
そして、だからこそ、希望があります。
もし人生の答えが最初から全部決まっていたら、私たちは何も期待する必要がありません。しかし、明日の自分も、明日の相手も、明日の出会いも、まだ分からない。
その「まだ分からない」という余白の中に、人間の可能性があるのではないでしょうか。
「衆生本来仏なり」。
この言葉を、難しい仏教用語として覚えるだけではなく、「目の前の人を、まだ分からない存在として大切に見る」という智慧として受け取ってみる。
そうすると、婚活も、夫婦関係も、人生そのものも、少し違って見えてくるかもしれません。
人は、分からない。
だからこそ、面白い。
そして、自分自身もまだ分からない。
だからこそ、人生はこれからも続いていく。「衆生本来仏なり」という言葉を、私はそんなふうにも受け取ってみたいと思います。
結婚相談所パートナーは、これからも「婚活と人生の伴走者」として、そんな一人ひとりの「まだ見えていない可能性」に寄り添っていきたいと思います。










