パートナー代表の高橋俊哉です。

8月も最終盤に入りました。蝉の鳴き声も少し落ち着いてきたように感じられる時期です。台風あり、地震もありました。大きな災害に見舞われた地域の方々には心からお見舞い申し上げます。そして、今年も厳しい暑さが続いています。外に出ると、太陽の強さが痛いぐらい、カウンセラー高橋は、日傘は手放せなくなっていて、夕方からの急なスコールにも活用したりもしております。そんな安定しない時だからこそ、ちょいと立ち止まり、深呼吸3回してから冷たい水に喉を鳴らし、ほっと一息。自分の人生を静かに眺めてみることも大切なのではないでしょうか。

人生を長く生きていると、「運」というものについて考えることがあります。

「あの人は運がいい。」「自分はどうも運が悪い。」「あの時、もう少し運が良ければ。」「あの人と出会えたのは、本当に運が良かった。」

私たちは、人生の出来事を「運が良い」「運が悪い」という言葉で整理することがあります。

婚活でも同じです。

「今回は良い人に出会えなかった。運がなかった。」「こんな素敵な方と巡り会えて、私は運がいい。」そんな言葉を会員様から伺うことがあります。

しかし、本当に「」とは、それほど簡単に良い悪いを決められるものなのでしょうか

今日は、そんなことを考えさせてくれる、芥川龍之介の短編小説』を取り上げてみたいと思います。これは後述もしていますが、なんと大正6年、今から110年前に発表された作品なのです。

芥川龍之介というと、『羅生門』『鼻』『蜘蛛の糸』『地獄変』などを思い浮かべる方が多いと思います。

』は、それらに比べるとあまり知られていない作品かもしれません。しかし、短い作品でありながら、「運とは何なのか」「幸福とは何なのか」という問いを、読者に静かに突きつけてくる、とても興味深い作品です。

』は、大正六年(1917年)に発表された作品で、『今昔物語集』巻第十六の「貧しき女、清水の観音に仕りて助けを得る語」を素材としています。ただし、芥川は原話をそのまま書いたのではありません。原典では観音様への信仰と、その霊験によって女性が救われるという説話的な意味合いが強いのに対して、芥川は若い青侍と年老いた陶器師との会話を置き、同じ出来事を「運とは何か」という問題へと変えているのです。

物語は、清水寺へ向かう人々が行き交う京都の往来から始まります。

ある日、若い青侍が陶器師の老人に、観音様へ参詣する人が多いことから、運について話しかけます。

そこで老人は、一人の女性の話をするのです。

その女性は、貧しい暮らしをしていました。

そこで清水の観音様に、「どうか一生、食べることに困らないように」と願います。

すると観音様のお告げがありました。

帰り道で最初に出会った男の言うことを聞け、というのです。

女性はお告げに従います。

そして帰り道、彼女の前に一人の男が現れます。

その男は彼女に結婚を申し込み、女性はその言葉に従います。

ところが、結婚した男は盗賊でした。

その後、逃げる途中で思いもよらない事件に巻き込まれ、女性自身も人の命を奪うことになります。

夫である盗賊は捕らえられてしまいます。

ところが、女性には盗賊が残した財産があり、それを元手に商売を始めます。

そして年月が経った頃には、西の市で店を構え、何不自由のない暮らしをしている女性になっていた、という話です。

ここまで読むと、何とも奇妙な話です。

観音様に「一生、食べることに困らないように」と願った。

その願いは、確かに叶った。

しかし、その途中には、盗賊との結婚、女の逃亡を阻もうとする尼の老婆を意図せずも殺めてしまう、夫が捕らえられるという出来事があった。

そして最後には、裕福な暮らしをしている。

さて、この女性は「運が良かった」のでしょうか。それとも「とんでもなく運が悪かった」のでしょうか。

ここが、この作品の面白いところです。

物語を聞いた若い青侍は、「それこそ幸運な女だ」と考えます。自分だったら、そのような運をぜひ授かりたい。そういう態度を示します。

一方、話をした陶器師の老人は、どうもそう簡単には考えていません。

この対照が、『運』という作品の重要なところです。若い青侍からすれば、結果がすべてです。女性は貧しかった。しかし、最後には豊かになった。だから「運が良い」。非常に分かりやすい考え方です。

しかし老人は、そこに疑問を持っています。本当に、それだけで「幸運」と言えるのだろうか。

ここに私は、人生を考えるうえで、とても大切な問いがあるように思います。

私たちも、つい結果だけを見ます。年収が上がった。家を買った。結婚した。子どもが生まれた。仕事で成功した。だから「幸せ」。

反対に、離婚した。会社を辞めた。お見合いを断られた。病気になった。事業がうまくいかなかった。だから「不幸」。

しかし、本当にそうでしょうか。

人生は、結果だけではありません。

そして、人生の途中にいる私たちには、その出来事が最終的に何を意味するのか、本当のところは分からないのです。

ここに『』という作品の深さがあります。

たとえば、婚活をしていて、お見合いを申し込んだ相手から断られたとします。

その瞬間は、「運が悪かった」と思うかもしれません。

「せっかく良いと思ったのに。」「また断られた。」「自分にはご縁がないのだろうか。」

しかし、その一か月後、別の方と出会い、その方と人生を共にすることになったとしたら、最初のお断りは「運が悪かった」のでしょうか。むしろ、そのお断りがあったからこそ、次の出会いが生まれたのかもしれません。

逆のこともあります。

「こんな素晴らしい方と出会えて、自分はなんて運がいいのだろう。」

そう思って結婚したものの、何年か後には、その結婚生活が苦しみの原因になることもあります。

すると、最初の「幸運」は、本当に幸運だったのでしょうか。

こう考えると、「運が良い」「運が悪い」という言葉が、急に頼りなくなってきます。

人生には、後になって意味が変わって見える出来事がたくさんあるからです。

以前、このブログではモーパッサンの『首飾り』を取り上げました。

あの物語でも、主人公のマチルドは一つの出来事によって十年間もの苦労を背負うことになります。

普通に考えれば、まさに「不運」です。

ところが、その十年間を生きたことで、彼女は以前とは違う強さを身につけていきます。

「不幸だった」と簡単に決めてしまうことができなくなるのです。

芥川の『運』も、どこか似ています。

出来事には、最初から「幸運」「不運」という札が貼られているわけではない。

私たちが後から、それをそう呼んでいるだけなのかもしれません。

そして、ここで私はもう一つ面白いことに気づきます。

この作品の女性自身は、「私は幸運だった」と言っているわけではありません。

「私は不幸だった」と嘆いているわけでもありません。

ただ、その人生を生きている。

そして最後には、店を持ち、暮らしを立てています。

つまり、「幸運」という評価をしているのは、女性自身ではなく、彼女の人生を外から見ている人たちなのです。

これは、私たちの人生にも当てはまるのではないでしょうか。

「あの人は幸せそう。」「あの人は成功している。」「あの人は運がいい。」

私たちは他人の人生を見ると、簡単に評価します。

しかし、その人の心の中までは分かりません。

逆に、自分の人生についても、「自分は運が悪い」と思っていることが、他人から見ればまったく違って見えることがあります。

人生とは、それほど複雑なものです。

だから私は、会員様との面談でも、「今の出来事だけで人生の結論を出さないでください」とお伝えしたいと思っています。

婚活では、特にそうです。

お見合いが成立しない。

交際が続かない。

何度も断られる。

年齢を気にしてしまう。

周囲の人が次々と結婚していく。

そうすると、「自分は運が悪い」と思ってしまいます。

しかし、婚活は人生の一部分です。

一つのお見合いが成立しなかったからといって、その人の人生全体が否定されたわけではありません。

一人の人から断られたからといって、「誰からも必要とされない人」になったわけでもありません。

まだ、その人とのご縁がなかっただけなのです。

そして、人生において「まだ会っていない人」がどれほどいるでしょう。

これから出会う人。

これから経験すること。

これから変わっていく自分。

私たちは、それを知りません。

だから、「運が悪い」と決めつけるには、人生はまだ早すぎるのです。

』には、「観音様に願えば、願った通りの幸福がやってくる」という単純な話ではないところがあります。

むしろ、「願いが叶ったとして、それが本当にあなたの望んだ幸福なのか」と問いかけているように思えます。

これは、婚活にも非常に重要なことではないでしょうか。

「こんな人と結婚したい。」

年収はいくら以上。

年齢は何歳まで。

容姿はこういう人。

住んでいる場所はここ。

職業はこれ。

もちろん、条件を考えることは悪いことではありません。

結婚相談所では、現実的な条件を確認することも大切です。

しかし、条件を満たした人と出会えば、それで幸せになれるのでしょうか。

逆に、条件から少し外れていた人だからといって、その人との結婚生活が不幸になるのでしょうか。

ここにも「運」の不思議さがあります。

人生を豊かにする人との出会いは、案外、最初から「理想の人」として現れるとは限りません。

話してみたら意外と気が合った。

最初はそれほど興味がなかったけれど、何度か会ううちに安心できるようになった。

華やかなタイプではないけれど、一緒にいると心が穏やかになる。

そんなご縁もあります。

私は長年、結婚相談の仕事をしてきましたが、結婚生活にとって本当に大切なのは、条件だけではないと感じています。

一緒にいて安心できる。

話を聞いてくれる。

困った時に支えてくれる。

相手の立場を考えられる。

一緒に食事をして笑える。

何でもない一日を、一緒に穏やかに過ごせる。

そういうものは、数字には表れません。

そして、それこそ「運」なのかもしれません。

芥川の『運』に戻りましょう。

私は、この女性を「運が良い」と断定する必要も、「いや、こんな人生は不運だ」と断定する必要もないと思っています。

むしろ、**「運が良いとも言えるし、運が悪いとも言える。そのどちらとも簡単には決められない」**という読み方が、この作品にはふさわしいのではないでしょうか。

そして、そこにこそ人生の真実があります。

人生は、白か黒かではありません。

幸せか不幸か。

成功か失敗か。

勝ちか負けか。

その間には、無数の色があります。

以前ご紹介した荘子の「万物斉同」や、モーパッサンの『首飾り』にも通じるものがあります。

人間は、自分の狭い尺度で物事を判断します。

しかし、本当のところは分からない。

だからこそ、少しだけ判断を保留する。

「これは不幸だ」と思った時に、「本当にそうだろうか」と問い直す。

「これは幸運だ」と思った時にも、「本当にそうだろうか」と考えてみる。

それだけで、人生の見え方は変わってくるのではないでしょうか。

私は「運」というものを、人生を自分の思い通りにする力とは考えたくありません。

むしろ、思い通りにならないことも含めて、その時々の縁をどう受け止め、どう生きるか。

そこに「運」の本当の意味があるように思います。

婚活も同じです。

「運命の人」を必死になって探すだけではなく、目の前に現れた人とのご縁を丁寧に見つめてみる。

「この人は自分の理想と違う」とすぐに決めつけるのではなく、もう少し話をしてみる。

反対に、「条件が完璧だから」と思い込むのではなく、一緒にいる時の自分の心にも耳を傾けてみる。

そして、うまくいかなかった時には、「自分は運が悪い」と自分自身を責めない。

ご縁がなかった。

それだけです。

そして、まだ次のページがあります。

人生は、最後まで読まなければ分かりません。

『運』の女性も、若侍から見れば「幸運な女」です。

陶器師から見れば、そう簡単に幸運とは言えない。

では、女性自身はどうなのか。

芥川は、その答えを読者に委ねているように思います。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけることができます。

「あなたにとって、運が良いとは何ですか。」

お金があることですか。

仕事が成功することですか。

理想の人と結婚することですか。

健康で長生きすることですか。

それとも、何でもない日常を「ありがたい」と思えることでしょうか。

私は、長い人生を生きてくると、後者の大切さが少しずつ分かってくるように思います。

朝、目が覚める。

おいしく食事ができる。

誰かと話す。

笑う。

仕事をする。

誰かの役に立つ。

そして、今日一日を無事に終える。

そんな一つひとつの中に、実は「運」があるのかもしれません。

人生には、自分では選べないことがあります。

生まれる場所も、時代も、家族も、過去も変えられません。

しかし、これから出会う人や、これから起きることまで、すべて決まっているわけではありません。

だからこそ、今日を丁寧に生きる。

目の前の人を大切にする。

自分自身を粗末にしない。

そして、やってきたご縁を「幸運なのか、不運なのか」と急いで判定しない。

「このご縁には、どんな意味があるのだろう。」

そんな気持ちで受け止めてみる。

それが、芥川龍之介の『運』から私たちが学べる一つの智慧なのではないでしょうか。

婚活をされている皆様にも、ぜひお伝えしたいことがあります。

今、思うような出会いがないとしても、人生の運が尽きたわけではありません。

今まで結婚できなかったとしても、それで人生が失敗したわけでもありません。

今日のお見合いがうまくいかなかったとしても、それが「悪い運」だったとは限りません。

もしかすると、その一つのお断りが、まだ見ぬ次のご縁につながっているのかもしれません。

人生は、不思議です。

ほんの少しの出来事で、思いもよらない方向へ進んでいきます。

だから、「運がない」と嘆くよりも、「次にどんな縁が待っているのだろう」と、ほんの少し楽しみにしてみる。

それだけでも、人生への向き合い方が変わるのではないでしょうか。

芥川龍之介の『』は、私たちに「幸運をください」と願うことだけを教えている作品ではないと思います。

むしろ、「あなたが幸運だと思っているものは、本当に幸運なのか。そして、あなたが不運だと思っているものは、本当に不運なのか」と問いかけているのではないでしょうか。

答えは、すぐには分かりません。

人生の最後まで分からないことさえあるでしょう。

だからこそ、焦って結論を出さない。

幸せにも、不幸にも、成功にも、失敗にも、少しだけ余白を残しておく。

「まだ分からない。」

そう言えることも、人生を生きるうえで大切な智慧なのだと思います。

そして今日も、一つのご縁を大切にする。

一人の人との出会いを大切にする。

自分自身にも、優しい言葉をかける。

その積み重ねの先に、思いもよらない「運」が待っているかもしれません。

人生とは、本当に不思議なものです。

「運が良い人生」を求めるよりも、目の前の人生を丁寧に生きてみる。

すると、後になって振り返った時、

「あの出来事も、あの出会いも、あの別れも、みんな自分の人生に必要なものだったのかもしれない。」

そんなふうに思える日が来るのかもしれません。

芥川龍之介の『運』を読み終えた時、私は改めて思います。

運が良いのか、悪いのか。

その答えを急がなくてもいい。

人生の途中にいる私たちには、まだ結末が分からないのですから。

今日という一日を大切に。

目の前のご縁を大切に。

そして、まだ見ぬ明日を少し楽しみに。

もしかすると、人生で本当に大切な「運」とは、幸運をつかむことではなく、どんな出来事の中にも、自分の人生を豊かにしてくれる何かを見つけていく力なのかもしれません。

そう考えると、私たちは案外、気づかないところで、すでにたくさんの「運」に恵まれているのかもしれませんね。

まだお読みになっていない方は、ぜひ一度手に取っていただき、じっくりと考えてみてはいかがでしょうか。