パートナー代表の高橋俊哉です。
7月も後半に入り、いよいよ夏本番を迎えようとしています。蝉の声も聞こえてきていて、照りつける日差しにこの夏の勢いを感じます。暑さが続くと、どうしても目の前のことだけで精一杯になってしまいます。しかし、そんな時だからこそ、少し立ち止まって人生を長い時間の流れの中で見つめ直してみることも大切ではないでしょうか。そのためには、優れた著作に触れることは最も良い方法だと思っています。今日は、フランスの文豪モーパッサンの名作『首飾り』を通して、「幸せ」と「不幸」について考えてみたいと思います。
『首飾り』は世界中で読み継がれてきた短編小説です。主人公のマチルドは、美しく聡明でありながら裕福ではない暮らしに不満を抱いています。ある日、華やかな舞踏会へ出席することになり、友人から美しいダイヤの首飾りを借ります。しかし、その首飾りを帰宅途中で失くしてしまいます。夫妻は借金をして同じ首飾りを買い、友人へ返却しました。その借金を返済するため、二人は十年間、想像を絶する苦労を重ねます。そして返済を終えた後、偶然友人と再会し、失くした首飾りが実は高価な宝石ではなく、模造品だったことを知るのです。
一般的な評論などでは、この作品は「虚栄心への戒め」と教えられることが多いようです。身の丈以上の見栄を張った結果、大きな代償を払うことになったという教訓です。もちろん、その読み方にも一理あります。しかし今までも何度か言及してきた、私の座右の書である宗教学者・植島啓司著『生きるチカラ』の中では、もう少し深い問いが投げかけられています。
「マチルドの十年間は、本当に不幸だったのだろうか。」
この問いを読んだとき、私はしばらく考え込んでしまいました。
確かに、首飾りが模造品だったという結末だけを見るなら、「何という不運だ」と思うでしょう。しかし、人生は最後の一場面だけで決まるものではありません。その十年間をどう生きたか、その経験によって何を得たかという視点に立つと、この物語はまったく違った姿を見せ始めます。
借金返済の日々は決して楽ではありませんでした。召使いはいなくなり、自ら家事をし、粗末な生活を送り、夫婦は必死に働き続けます。しかし、その歳月の中で、マチルドは現実を受け入れ、責任を果たし、忍耐する力を身につけていきます。若い頃には持っていなかった強さが育っていったとも読むことができます。
人生には、このようなことが少なくありません。
その時は「最悪だ」と思った出来事が、何年か後には「あれがあったから今の自分がある」と思えることがあります。逆に、「幸運だ」と思って飛びついたことが、後になって苦しみの始まりだったということもあります。
つまり、出来事そのものに最初から「幸福」や「不幸」という名前が付いているわけではないのかもしれません。
私たちは、つい人生を二つに分けたがります。
成功か失敗か。
幸せか不幸か。
勝ちか負けか。
しかし、本当に人生はそんなに単純なのでしょうか。
婚活でも同じことを感じます。
お見合いでお断りされた方は、「失敗しました」とおっしゃいます。しかし、その後にもっと相性の良い方と巡り会い、「あの時のお断りがあったから今があります」と笑顔で話してくださる方を私は何人も見てきました。
離婚を経験された方もいらっしゃいます。その経験を「人生最大の失敗」と考える方もいます。しかし、その経験があったからこそ、自分を見つめ直し、人への思いやりを深め、二度目の結婚で穏やかな幸せを築かれた方も少なくありません。
人生には、途中では意味のわからない出来事がたくさんあります。
だからこそ、あまり早く結論を出さないほうがよいのではないでしょうか。
以前、このブログで唯識という仏教思想をご紹介しました。唯識では、「私たちは現実そのものではなく、自分の心を通した世界を見ている」と説きます。
また、『イクストランへの旅』では、「世界を止める」という教えが語られていました。自分の思い込みや決めつけを少し手放してみると、今までとは違う世界が見えてくるという考え方です。
そして今回の『首飾り』も、私は同じ方向を指しているように思えるのです。
「これは不幸だ。」
そう決めた瞬間に、私たちの世界は狭くなります。
しかし、「本当にそうだろうか」と問い直した瞬間、新しい景色が見え始めます。
植島啓司さんは、「人生は物語である」といった趣旨のことを書かれています。物語は途中では結末がわかりません。第一章だけ読んで、「これは悲劇だ」と決めることはできません。
人生も同じです。
私たちは、まだ人生の途中を生きています。
今日起きた出来事が、十年後には人生最大の贈り物になっているかもしれません。
婚活もまさにそうです。
「年齢が高いから難しい。」
「恋愛経験が少ないから無理だ。」
「何度も断られている。」
そう思って相談に来られる方がいらっしゃいます。
しかし私は、その方の人生全体を見ているわけではありません。これから先にどんな出会いが待っているかも分かりません。
だからこそ、「まだ途中ですよ」とお伝えするようにしています。
途中で結論を出してしまうには、人生はあまりにも長いからです。
ここで大切なのは、「すべて良きこと」という言葉の意味です。
これは、「嫌なことも喜びなさい」ということではありません。
苦しいことは苦しい。
悲しいことは悲しい。
涙が出る日はあります。
その現実を無理に否定する必要はありません。
しかし、その出来事を「人生全体から見ても悪いことだった」と決める必要もないのです。
意味は、後から生まれることがあります。
苦しみの中から、人への優しさが育つことがあります。
失敗の中から、新しい生き方が始まることがあります。
だから「すべて良きこと」とは、出来事を美化する言葉ではなく、「人生はもっと大きな流れの中にある」という視点なのではないでしょうか。
私は日々、多くの会員様と面談をしています。
成婚される方には共通点があります。
それは、一度も失敗していない方ではありません。
断られた経験もあります。
落ち込んだ日もあります。
迷ったこともあります。
それでも、その出来事を人生の終わりにせず、一歩ずつ前へ進まれた方です。
その積み重ねが、人を柔らかくし、深くし、安心感のある人柄を育てていくように感じます。
人生とは、不幸を避け続けることではないのかもしれません。
思い通りにならない出来事を含めて、自分の人生として生き切ることなのかもしれません。
『首飾り』の最後で明かされる「首飾りは偽物だった」という事実は、読者に大きな衝撃を与えます。しかし、本当に大切なのは、その一言ではなく、その十年間を夫婦がどう生きたかではないでしょうか。
人生も婚活も、結果だけで価値が決まるものではありません。
そこへ至るまでの時間、人との出会い、自分の成長、そのすべてが人生そのものなのです。
今日起きた出来事を、急いで「失敗だった」「不幸だった」と決めなくてもよいのかもしれません。
今はまだ分からないだけで、その経験が未来の自分を支えてくれる日が来るかもしれないからです。
モーパッサンは『首飾り』を通して、単に虚栄心を戒めたかっただけではなく、「人生をそんなに簡単に判断してはいけない」ということを静かに語りかけているように、私は感じています。
植島啓司さんは本の中で、モーパッサンの次の一節に注目されています。
『あの日、首飾りを失くすようなことがなかったら、いったいどうなっていただろう。そんなこと誰にわかろうか、いったい誰が。人生はなんと不思議にできていることか!ほんのちょっとしたことで、破滅したり、救われたりするのだから!』
植島さんは、とりわけ最後の「破滅したり、救われたりする」という言葉に深い意味を見いだしています。「破滅する」は理解しやすい。しかし、なぜ「救われたりする」のか。その意味を、私たちはもう一度静かに考えてみる必要があるのではないでしょうか。
人生も婚活も、最後まで読まなければ結末は分かりません。
だからこそ、今日という一日を誠実に生きること。
目の前の出来事に真摯に向き合うこと。
そして、たとえ今は苦しい出来事であっても、「この経験にも、いつか意味が見つかるかもしれない」と信じて歩み続けること。
その静かな積み重ねが、やがて人生という長い物語を豊かなものにしてくれるのではないでしょうか。










