パートナー代表の高橋俊哉です。GWも終わり、少しずつ日常のリズムが戻ってきている頃でしょうか。お仕事などお忙しい日々になっているかとも思います。今日9日は、比較的過ごしやすい気候ですが、気圧変化や寒暖差も続いています。会員さんの中にも体調を崩されている方も多いようです。皆さま、無理は禁物、体調にはくれぐれもケアされてください。
さて本日は、仏教経典の中でも非常に独特な存在感を放つ『維摩経(ゆいまぎょう)』をベースに、人生や婚活における「本当の成熟」とは何か、というテーマについてお話ししてみたいと思います。
維摩経は、簡単に言えば「悟りとは、山奥で静かに修行することだけではなく、日常の真っ只中で、人間臭く生きながら深まっていくものだ」ということを説いた経典です。物語となっていて、主人公である維摩居士(ゆいまこじ)は、お坊さんではありません。在家の人物、つまり普通に社会生活を送りながら、商売もし、人とも関わりながら、しかも非常に深い智慧を持っている人物として描かれています。
ここが私は非常に重要だと思っています。
多くの方は、「もっと立派にならなければ」「もっと整わなければ」「もっと完璧でなければ」と考えがちです。婚活でも同じです。「年収がもっと必要」「コミュニケーション能力を上げなければ」「欠点をなくさなければ」「ファッションに気を使わなければ」と、自分を改善し続けようとします。
もちろん成長は大切です。しかし維摩経が教えているのは、「未完成のままでも、人は深く生きることができる」という視点です。
人間はそもそも矛盾した存在です。優しい日もあれば、余裕を失う日もある。感謝できる日もあれば、嫉妬や不安に飲み込まれる日もある。それでもなお、人は生きていく。その不完全さを抱えたまま、なお他者と向き合おうとするところに、人間の尊さがあるのだと維摩経は語りかけてきます。
婚活が苦しくなる大きな理由の一つは、「欠点をなくしてから愛されよう」としてしまうことです。しかし実際の人間関係は、完璧同士で成立するわけではありません。むしろ、お互いの不完全さを理解し合える、補完し合える関係が、長く穏やかに信頼関係が続いていくものです。
維摩経の中では、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という考え方につながる思想が色濃く流れています。これは非常に大胆な発想です。普通は、怒りや不安、欲望などの煩悩は「悪いもの」だと考えます。しかし維摩経では、それらを単純に否定しません。
例えば、不安を知っている人は、不安を抱える人に優しくなれます。孤独を知っている人は、人の寂しさを理解できます。挫折を経験した人は、人を見下しにくくなります。
つまり、「苦しみを通った経験そのもの」が、人間の深みになっていくのです。
これは婚活現場でも本当に感じます。
若い頃、勢いだけで進めていた恋愛とは違い、40代以降の婚活には、その人が生きてきた時間が滲み出ます。仕事の苦労、人間関係、離別、病気、家族の問題…。そうしたものを経験した人の言葉には、どこか重みがあります。
だから私は、婚活において「過去を消そう」としなくてもよいと思っています。
もちろん必要以上に過去に囚われる必要はありません。しかし、自分の傷や失敗を「なかったこと」にするのではなく、「それを通ってきた自分」として受け止められたとき、人は以前よりも柔らかくなります。そしてその柔らかさが、結果として人を惹きつけるのです。
維摩経はまた、「空(くう)」という思想を深く説いています。ただ、この“空”という言葉は誤解されやすいものです。「何もない」という意味ではありません。
簡単に言えば、「物事には固定された実体はない」ということです。
例えば、「自分はこういう人間だ」「人生はこういうものだ」「婚活とはこうあるべきだ」と思い込んでいることがあります。しかし実際には、それらは固定された真実ではなく、過去の経験や思い込みによって作られた“見方”に過ぎない場合が少なくありません。
婚活で「自分なんてもう遅い」「もう無理だ」と感じている方もいらっしゃいます。しかし、それは本当に事実でしょうか。
過去の経験からそう思い込んでいるだけかもしれません。
維摩経は、「決めつける心」から自由になることの大切さを説いています。
そしてここが非常に重要なのですが、自由になるとは「何でも好き勝手にする」という意味ではありません。むしろ逆です。
執着が減るほど、人は自然に他者に優しくなります。
「こうあるべき」が強すぎる人は、自分にも他人にも厳しくなります。しかし、「人間はそれぞれ違う」と本当に理解できるようになると、人をコントロールしようとしなくなります。
婚活でも、「理想通りの相手を探す」という発想だけでは、どうしても苦しくなることがあります。もちろん条件も大切です。しかし最終的に長く続く関係とは、「この人といると、少し自然体でいられる」という感覚ではないでしょうか。
維摩経の世界観には、「正しさよりも、深さ」という視点があります。
現代社会では、どうしても“正解”を探してしまいます。何が正しい婚活なのか。どう振る舞えば好かれるのか。どんなLINEが正解なのか。しかし人間関係は、本来そんなに単純ではありません。
むしろ大切なのは、「目の前の人に、本当に関心を向けているか」です。
維摩居士は、病を患った姿で人々を教化します。ここにも深い意味があります。普通なら、「健康で立派な人」が人を導くと思いがちです。しかし維摩経は、「弱さを持つ人間だからこそ、他者に寄り添える」と語っているようにも感じます。
人生でも婚活でも、「強くならなければ」と思いすぎなくてよいのかもしれません。
もちろん前向きに生きることは大切です。しかし、無理に完璧になろうとすると、人はどこか不自然になります。
それよりも、「弱さを抱えながらも誠実であろうとする人」の方が、私は深い魅力を持つと思っています。
また、維摩経では「沈黙」が非常に重要な意味を持ちます。有名な「不二法門」の場面では、多くの菩薩たちが真理について言葉で説明したあと、維摩居士は最後に“沈黙”します。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いています。生と滅、善と不善、罪と福、など相反する概念ですが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるということなのです。たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語りませんでした。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。つまり「本当に大切なことは、言葉を超えたところにある」という象徴とも言われています。
婚活でも、人生でも、つい言葉や理屈でなんとかしようとしてしまいます。しかし本当に安心できる相手とは、「無理に話さなくても疲れない相手」だったりします。
沈黙が苦痛ではない関係。以心伝心ともいえる関係。
それは、お互いが“存在”を受け入れている状態なのかもしれません。
人生は、思い通りにならないことの連続です。婚活も同じです。しかし維摩経は、「だからこそ人間は深まっていく」と語っているように思えます。
苦しみをなくしてから幸せになるのではなく、苦しみを抱えながらも、人とつながり、理解し合い、生きていく。その営みそのものに意味がある。
私はそのように感じています。
私どもは、単に条件をマッチングするだけの場所ではなく、「人生そのものに伴走する場」でありたいと考えています。婚活を通じて、自分自身を知り、人との関わり方を見つめ直し、少しずつ人生が整っていく。そのような時間をご一緒できればと思っております。
もし今、何かに迷っている方がいらっしゃるなら、「もっと完璧にならなければ」と思いすぎなくても大丈夫です。不完全なまま、迷いながら、それでも人と向き合おうとしている。その姿勢自体が、すでに尊い歩みなのだと思います。
人生も婚活も、「正解探し」ではなく、「理解を深めていく旅」なのかもしれません。維摩経は、そのことを静かに、しかし力強く教えてくれているように感じます。










